
結論:75歳繰り下げは標準的なケースでは不利になりやすい
年金の繰り下げ受給は「最大84%増額」という魅力的な制度ですが、平均寿命・健康寿命・税・社会保険料・加給年金の条件を総合すると、標準的なケースでは75歳までの繰り下げが有利になる場面はかなり限定的です。
75歳から受給を開始した場合、額面では大幅に増えても条件によっては手取りが15%以上目減りし、損益分岐点は88歳近くまで先延ばしされます。さらに健康寿命を考えると、健康なうちに年金を受け取れない期間が長くなるという本質的な問題があります。
本記事では、年金繰り下げ受給の「月9.5万円の罠」の正体を明らかにし、税金・社会保険料による手取り減少、実際の損益分岐点、健康寿命との関係、そして加給年金の失効リスクまで、制度の光と影を徹底的に解説します。
最後まで読めば、あなた自身にとって最適な年金受給戦略が見えてくるはずです。
年金繰り下げ制度の基本:2022年改正で何が変わったか
年金の繰り下げ受給とは、本来65歳から受け取れる老齢年金の受給開始を遅らせることで、将来受け取る年金額を増やす制度です。
2022年4月の制度改正により、それまで70歳までだった繰り下げの上限年齢が75歳まで延長されました。これは1952年4月2日以降に生まれた人が対象となります(生年月日や受給権発生日によって細かい例外もあるため、最終確認は年金事務所でご確認ください)。
増額の仕組みは明快です。受給開始を1ヶ月遅らせるごとに、年金額が0.7%ずつ増額されます。つまり1年(12ヶ月)遅らせれば8.4%、5年(60ヶ月)遅らせれば42%、そして最大の10年(120ヶ月)遅らせれば84%もの増額となります。
この増額率は一度決定されると生涯変わることはなく、亡くなるまで継続します。
注目すべき点は、老齢基礎年金(国民年金)と老齢厚生年金は別々に繰り下げることができるという柔軟性です。
例えば、厚生年金だけを65歳から受け取り、基礎年金だけを繰り下げるといった選択も可能です。この仕組みを理解しておくことは、後述する「加給年金の失効」問題を回避する上で重要になります。
具体的な金額で見てみましょう。2025年度の国民年金満額は年額83万1,700円、月額にすると約6.9万円です。これを75歳まで繰り下げると、増額率84%が適用されて年額約153万円、月額約12.8万円になります。
一見すると、月額が約2倍近くに増える魅力的な制度に見えます。しかしここに大きな落とし穴があるのです。
「月9.5万円の罠」とは何か:額面と手取りの決定的な差
「月9.5万円の罠」とは、75歳繰り下げで増額された年金の額面と実際の手取りの大きなギャップを指す言葉です。
多くのメディアや解説記事では額面の増額率(84%)ばかりが強調されますが、実際に銀行口座に振り込まれる金額は、そこから税金と社会保険料が差し引かれた「手取り」です。
具体例で見てみましょう。65歳時点で月5万円の基礎年金を受け取れる人が、75歳まで繰り下げると額面は月9.2万円(年額110.4万円)になります。
しかし実際には、ここから所得税、住民税、後期高齢者医療保険料、介護保険料が天引きされます。年金以外の収入がある場合や自治体によって異なりますが、他の年金や給与収入があるケースでは手取りが月7.5~8万円程度になることもあります。
さらに厳しい現実があります。標準的な年金額のケース、例えば65歳時点で月15万円を受け取れる人が70歳まで繰り下げた場合を見てみましょう。
額面は42%増の月21.3万円になりますが、手取りは月18万円程度にとどまります。増加額で見ると、額面では月6.3万円増えたのに、手取りでは月4.8万円しか増えていないのです。約1.5万円、率にして約24%が税金と保険料で消えてしまいました。
この「罠」は年金額が多いほど深刻になります。年金収入が増えると、累進課税の所得税率が上がり、住民税も増え、さらに後期高齢者医療保険料や介護保険料も所得に応じて上昇します。
場合によっては医療費の自己負担割合も1割から2割、あるいは3割へと上がる可能性もあります。
「84%増額」という言葉に惹かれて繰り下げを選択しても、実際の生活が84%豊かになるわけではないのです。
税金・社会保険料で消える増額分:手取りの実態
年金から天引きされる税金・社会保険料の内訳を詳しく見ていきましょう。
まず所得税ですが、公的年金等控除(65歳以上は最低110万円)と基礎控除(48万円)を差し引いた課税所得に対して課税されます。年金収入が158万円以下であれば基本的に所得税は課税されませんが、繰り下げによって年金額が増えると、この非課税ラインを超えてしまいます。
次に住民税です。住民税の公的年金等控除は110万円、基礎控除は43万円(所得税より5万円少ない)なので、年金収入が153万円を超えると課税対象となります。税率は一律10%(都道府県民税4%+市区町村民税6%)に均等割が加わります。所得税より低い金額から課税が始まる点に注意が必要です。
後期高齢者医療保険料(75歳以上が対象)は、都道府県ごとに保険料率が異なりますが、所得に応じた「所得割」と定額の「均等割」で構成されます。年金額が増えれば所得割の負担が重くなり、場合によっては軽減措置の対象から外れることもあります。年間18万円以上の年金を受け取っている場合は、原則として年金から天引きされます。
介護保険料も同様に所得に応じて段階的に設定されています。多くの自治体では所得区分が10段階以上に分かれており、年金収入が増えることで上位の区分に移行し、保険料負担が大きく跳ね上がる可能性があります。介護保険料も年金からの天引き対象です。
これらを総合すると、年金のみで他に収入がない標準的なケース(年金年額140~260万円程度)では、手取り率は額面の88~91%程度となることが多く、控除率は約9~12%程度です。
ただし、年金額が高額(年300万円以上)な場合や他の収入がある場合は、累進性のある所得税の影響で手取り率が85%前後まで下がり、15~20%程度が税金・社会保険料として控除されることもあります。
※本記事の税制・控除に関する説明は2025年時点の制度に基づいています。今後の税制改正により非課税ラインや控除額が変わる可能性がありますので、最新情報は年金事務所や税務署でご確認ください。
具体的な試算例を見てみましょう。
65歳時点で年金年額210万円の人が5年繰り下げて70歳から受給する場合、額面は42%増の約300万円になります。
しかし税金・社会保険料を差し引いた手取りは、65歳受給の場合の191万円から255万円への増加となり、増加率は約34%にとどまります。
額面の42%増が手取りでは34%増に目減りするのです。
損益分岐点は何歳なのか:額面と手取りで大きく異なる現実
「何歳まで生きれば元が取れるのか」という損益分岐点の計算は、年金繰り下げを検討する上で最も気になる点でしょう。しかし多くの情報では「額面ベース」の損益分岐点しか示されておらず、実態を正しく反映していません。
まず額面ベースの損益分岐点を確認しましょう。70歳まで5年繰り下げた場合、65歳から受給した場合の累計額に追いつくのは約82歳です。
計算式は比較的シンプルで、繰り下げた年数(5年)を増額率で割り、それに受給開始年齢を足します。70歳+(5年÷0.42)≒82歳となります。
75歳まで10年繰り下げた場合はどうでしょうか。同様の計算をすると、75歳+(10年÷0.84)≒86歳11ヶ月が損益分岐点となります。つまり87歳近くまで生きなければ、65歳から受給した場合の累計額に追いつかないのです。
しかしこれはあくまで額面ベースの話です。実際の手取りベースで計算すると、損益分岐点はさらに先に延びます。70歳繰り下げの場合、手取りベースの損益分岐点は約84歳1ヶ月です。
額面ベースより約2年遅くなります。75歳繰り下げの場合は、おおむね88~89歳程度になると見込まれます(試算条件によって前後します)。
なぜこのような差が生まれるのでしょうか。それは税金・社会保険料が累進的に増加するためです。
繰り下げによって増額された年金には、より高い税率や保険料率が適用されます。一方、65歳から受給していた場合の累計額計算では、各年の実際の税負担(より低い税率)で計算されます。この差が積み重なって、損益分岐点が3~4年も先延ばしされるのです。
現在の平均寿命との比較も重要です。2024年のデータでは、日本人の平均寿命は男性81.09歳、女性87.13歳です。
75歳繰り下げの手取りベース損益分岐点(88~89歳程度)と比較すると、男性は平均寿命を7~8年も超えて生きなければ元が取れず、女性でも平均寿命より1~2年長生きする必要があります。
さらに重要な視点として、65歳時点での平均余命を見ると、男性は約19.5年(84~85歳まで生きる計算)、女性は約24.4年(89~90歳まで生きる計算)です。つまり女性の場合はちょうど損益分岐点付近まで生きる可能性が高いものの、男性の場合は損益分岐点に届かない可能性が高いと言えます。
健康寿命との深刻なギャップ:受給開始時には既に不健康?
損益分岐点の議論でしばしば見落とされるのが「健康寿命」という視点です。健康寿命とは、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間を指します。単に長く生きるだけでなく、健康に年金を活用できる期間こそが重要なのです。
2022年の日本人の健康寿命は、男性72.57歳、女性75.45歳です。一方、平均寿命は男性81.09歳、女性87.13歳ですから、その差は男性で約8.5年、女性で約11.6年もあります。この差の期間は、何らかの健康上の制限を抱えながら生活する期間を意味します。
ここで75歳繰り下げを選択した場合を考えてみましょう。受給開始の75歳時点で、男性は既に健康寿命を2.5年も超えています。女性でもほぼ健康寿命に到達しています。つまり増額された年金を受け取り始める時には、既に健康上の制限を抱えている可能性が高いのです。
この問題は、損益分岐点の議論をさらに複雑にします。
確かに90歳まで生きれば数学的には「得」かもしれません。しかし、その頃には医療費や介護費用がかさみ、旅行や趣味などに年金を自由に使える状態ではなくなっている可能性が高いのです。
70歳繰り下げの場合はどうでしょうか。受給開始時の70歳は、まだ多くの人が健康寿命の範囲内にいます。
しかし損益分岐点の84歳は明らかに健康寿命を超えています。つまり「元を取る」ためには、健康上の制限を抱えながら14年間も年金を受け取り続けなければならないのです。
65歳から受給を開始する場合と比較してみましょう。65歳から受給すれば、少なくとも健康寿命までの7~10年間は、健康な状態で年金を活用できます。
旅行に行く、趣味を楽しむ、孫にお小遣いをあげる――こうした「お金を自由に使える期間」を最大化できるのが、実は65歳受給の大きなメリットなのです。
加給年金の失効という大きな損失:家族がいる人の落とし穴
年金繰り下げには、もう一つ見落とされがちな大きなリスクがあります。それが加給年金の失効です。加給年金とは、厚生年金の「家族手当」のようなもので、一定の条件を満たすと老齢厚生年金に上乗せして支給されます。
加給年金の受給条件は以下の通りです。厚生年金の加入期間が20年以上ある人が65歳に到達した時点で、生計を維持している65歳未満の配偶者または18歳到達年度末までの子供がいる場合に加算されます。金額は配偶者の場合、年間約39万円です。
ここで重要なのは、老齢厚生年金を繰り下げている期間中は、加給年金が支給されないという点です。加給年金は繰り下げによる増額の対象外であり、受給開始を遅らせた分だけ受け取れる期間が短くなります。
具体例で損失額を計算してみましょう。配偶者が10歳年下のケースを考えます。本来なら65歳から75歳までの10年間、毎年39万円の加給年金を受け取れます。総額は390万円です。
しかし75歳まで老齢厚生年金を繰り下げると、この10年間の加給年金が完全に失効します。390万円の損失です(※加給年金額は年度ごとに改定されるため、実際の損失額はその時点の金額により前後します)。
配偶者が5歳年下なら5年間分の195万円、3歳年下なら3年間分の117万円が失効します。繰り下げによる増額分でこの損失を取り戻せるかどうか、慎重に計算する必要があります。
この問題への対策として、老齢厚生年金だけを65歳から受給し、老齢基礎年金だけを繰り下げるという選択肢があります。
加給年金は老齢厚生年金に加算されるため、厚生年金を受給していれば加給年金も受け取れます。基礎年金だけの繰り下げなら、加給年金を失うことなく、ある程度の増額メリットを享受できます。
配偶者との年齢差が大きい人、特に年下の配偶者がいる人にとって、安易な繰り下げは大きな損失につながります。年金制度の複雑さゆえに、多くの人がこの落とし穴に気づかないまま判断してしまう危険性があります。
繰り下げすべき人・すべきでない人:個別判断の重要性
ここまで年金繰り下げのリスクを中心に解説してきましたが、すべての人にとって繰り下げが不利というわけではありません。個人の状況によっては、繰り下げが合理的な選択となるケースもあります。
まず繰り下げが有利になりやすいのは、65歳以降も十分な収入がある人です。
会社経営者、自営業者、高度専門職などで70歳を超えても現役収入がある場合、生活費を労働収入で賄えるため、年金は将来に回すことができます。また元々の年金額が少ない人も繰り下げに向いています。
基礎年金のみ、あるいは年金年額が100万円程度の人は、繰り下げによる増額分に対する税・保険料負担が相対的に小さく、手取りの増加率が高くなるのです。
独身または配偶者が既に年金を受給している人は、加給年金の失効リスクがないため、繰り下げのデメリットが少なくなります。
長寿家系で健康に自信がある人も繰り下げを前向きに検討できます。両親や祖父母が90歳以上まで元気に生きている家系の場合、損益分岐点を超える可能性が高まります。ただし、家系の長寿傾向と自身の健康は別問題ですから、過信は禁物です。
一方で、繰り下げを避けるべき人も明確です。年下の配偶者がいる人は、前述の加給年金失効リスクが大きいため、少なくとも老齢厚生年金の繰り下げは避けるべきです。持病がある、あるいは健康不安を抱えている人も、損益分岐点まで生きられない可能性が高く、繰り下げは不利です。
65歳時点で十分な貯蓄がない人は、繰り下げによって生活が苦しくなるリスクがあります。
老後資金を切り崩しながら年金受給を待つのは、資産の目減りを招き、本末転倒です。元々の年金額が多い人(年額300万円以上)は、繰り下げによって税・保険料負担が大きく増加し、手取りの増加率が低くなるため、メリットが小さくなります。
現在の年金繰り下げ選択率のデータも示唆的です。基礎年金のみの受給者で繰り下げを選択しているのはわずか2.2%です。
一方、繰り上げ受給を選択しているのは24.5%と、繰り下げの10倍以上です。多くの人が「早く受給したい」と考えている背景には、健康不安、資金需要、制度への不信など、さまざまな理由があると考えられます。
結論:あなたはどう選択すべきか
年金の繰り下げ受給は、一見すると「84%増額」という魅力的な制度ですが、その実態は決して単純ではありません。
本記事で明らかにしたように、額面の増額と手取りの増額は大きく異なり、損益分岐点は多くの人の平均寿命を超え、健康寿命とのギャップは深刻で、加給年金の失効という隠れたリスクも存在します。
最も重要な結論は、「万人に共通する正解はない」ということです。あなたの年齢、健康状態、家族構成、資産状況、労働状況、そして何より人生観によって、最適な選択は異なります。しかし少なくとも、制度の「光」だけでなく「影」も正しく理解した上で判断することが不可欠です。
標準的なケースを考えると、現実的な選択肢は3つあります。第一は65歳から受給開始する方法で、これは最も一般的な選択です。
健康なうちに年金を活用でき、加給年金も満額受け取れ、リスクが最も少ない選択と言えます。第二は老齢厚生年金は65歳から、基礎年金だけを繰り下げるバランス型の選択です。
加給年金を失わずに、ある程度の増額メリットを得られます。第三は70歳まで繰り下げる方法で、75歳繰り下げよりは現実的で、手取りベース損益分岐点も84歳程度に抑えられます。ただし健康と資金に余裕がある人向けです。
75歳繰り下げについては、損益分岐点が88~89歳と極めて高く、受給開始時には既に健康寿命を超えているリスクが高いため、標準的なケースでは有利になる場面はかなり限定的です。
ただし、長寿家系で元々の年金額が少ない人や、高齢でも高収入が続く一部の人にとっては、依然として選択肢の一つとなり得ます。「年金は保険である」という本質を考えれば、長生きリスクに備えつつ、健康なうちに活用できる仕組みこそが重要なのです。
年金制度は複雑で、個別の状況によって最適解が異なります。この記事の情報を参考にしつつ、必要に応じて年金事務所や専門家(ファイナンシャルプランナー、社会保険労務士など)に相談することをお勧めします。
繰り下げの判断は一度決めたら取り消せないため、慎重な検討が必要です。
あなたの老後が、経済的にも健康的にも豊かなものになることを願っています。年金は老後生活の土台です。その土台をどう築くか、この記事が判断の一助となれば幸いです。

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